佐藤春夫の少年時代(17)
・母方の系譜と春夫の「初めての旅」(1)
「甘やかされた子ども」は「いつも詩人である」、「つまり詩人をつくる為めには甘い母が必要なのだ」(「わが父わが母及びその子われ」)とされる春夫の母政代は、和歌山市湊の竹田家の出で、「紀州徳川家の御庭奉行」であったと、これまで言われてきました(直接の春夫の言や全集年譜)。
春夫の作品「追憶」によれば、伏虎城(和歌山城)の写真を見て、前景に映っている「扇の芝」という広場は「わたくしの母の家の裏木戸につづく二百歩ばかりの小路を出た突き当りに見える広場」であった。母のおぼつかない記憶によれば、竹田氏は「もと四国の某藩主に仕へてゐたが、その藩主が入婿として(?ママ)和歌山へ迎へられた時、竹田氏の祖先も供人となつて来て紀州の藩士となつた家であつたが、代代槌五郎を名とし、最も重く用ゐられた時代がお庭奉行と云ふものであつたといふから」とあるところから、「御庭奉行」という職が当てられているのですが、春夫は「殿様のお茶室のぐるりにゐた閑職らしく」と解しているものの、「御庭奉行」はむしろ隠密、密偵の役割で、紀州藩主から8代将軍に就いた徳川吉宗は、江戸幕府のなかにこの職を設け、紀州から連れて来た17人の者を主に大奥の動向を探らせたのが始まりとされ、やがて将軍直属の密偵として市中の風聞や諸大名の動静を探る役割を担うようになっていったのです。
武内善信氏(元和歌山市立博物館学芸員)の示教によれば、「四国の某藩」とは紀州藩初代の徳川頼宣(よりのぶ)の次男頼純(よりずみ)が藩主となって3万石で入封した伊予西条の松平家で、紀州藩の支藩のような立場で、西条松平家の藩主は3度紀州藩の藩主になっていますが、「入り婿」の立場の者はいません。最初は、5代藩主吉宗が将軍となったので、6代に西条から宗直が、8代の重倫が幕府から隠居を命じられたので、9代に治貞が、13代の慶福が将軍家茂になったので、最後の藩主として14代茂承が、それぞれ紀州に入っています。14代は幕末なので、竹田氏が同伴して紀州入りしたのは、6代の宗直か、9代の治貞の折であろう、と言います。
竹田槌五郎の父豊三郎が載った藩士名簿には(「文久元紀士鑑 乾」「和歌山御家中御目見以上以下 伊呂波寄惣姓名帳」・『和歌山県史近世史料1』所収)、豊三郎は「切米二五石」
「虎之間席並 大御番(おおごばん)」と出ているということで、「家が近かった」「沢の老人」というのも、当時の絵図には竹田家の隣家に出ている沢善右衛門のことで、その子が沢潤一郎であろうと言います。沢家も「勘定方」ではなく、同じ「大御番」で「切米二五石」、下級武士ですが、藩主に「御目見」(直接、接見が可能)以上の藩士で、「大番」とも呼称される「大御番」は、歴(れっき)とした戦闘部隊の役割だったと言います。
「何しろ母の祖父の槌五郎は一種の幇間的寵臣であつたらしく、扇の芝に近い湊南牛町といふ城に近い土地に相当に広い屋敷を与へられてゐたもののやうであつたが、長州征伐以後藩の財政の困難につれて藩士一同も困つてゐるところへ維新になつていよいよ微禄にしてしまひ、はじめは人に貸して置いた土地を追々と人に掠められた末、(略)徳川さまでも瓦解のご時勢だからといつも口癖のやうにさうつぶやきながら一切をあきらめて、(略)終に十間ほどあつた母屋の大半を開放して、そのころ出来た県庁の小役人や諸学校の教師や学生などを止宿させて口を糊するまでに落ちぶれてゐた。」(「追憶」)ということです。
写真は「絵図」。竹田家・沢家が表記され、扇の芝も表記されている。(武内義信氏提供)
佐藤豊太郎はこの竹田家に下宿して、医学校に通ったのです。
明治31年7月、春夫6歳の夏、母政代に伴われての「初めての旅」は、母親の里和歌山への里帰り、兄の竹田槌五郎が41歳で病没した時の前後だったようです。「追憶」や「日本ところどころ」では、明確に「弔問」と記されているのですが、「回想」では「母はその時、中風で死の床にゐる兄を見舞ふために和歌山へ出発したのだ。さうして僕は伴はれた。」とあります。「わが生ひ立ち」では、「その枕辺に座つたことがあつたーそれもまだ生きてゐた病人(な)のか、それともゝう回復しなくなつた病人の枕辺であつたか、それさへ思ひだすことがおぶつかない。」とあって、記憶ははなはだ曖昧です。そうして、どの作品にも野辺送りの叙述がまったく描かれていなくて、記憶から飛んでいます。
どの作品にも共通して描かれているのは、小さな船(100トンとも300トンとも)の船旅の困難さ、和歌山の紀ノ川河口の港青岸での艀(はしけ)での上下船、母の里の佇まい、それから母の母、祖母の実家を訪れた時の田舎の屋敷の佇まい、などですが、ただ就寝の折、新宮で待つ父親が急死してしまうのではないかという恐怖感に襲われたと言うことです。伯父の臨終に立ち合ったからでしょうか。
母親の危篤の兄の介抱、臨終の看取り、野辺送り、一段落しての母親の里への汽車の旅、「全くこの旅行は、思ひも及ばないほど僕に有益であつた。僕が能くものを観たり感じたりする力は、別個の周囲に置かれて、その間に著しく養成せられたらしい。僕はこの幼少の旅に就て、数多くのさうしてより以上に質に於て渥味(こく)のある印象を、今も心に蓄へてゐる。―いずれは至極あどけないものではあるが。」と言い、「この旅を一期劃としてこの以後、僕には子供ながらにも多少つながりのある生活らしいものがややに展開し出してゐるのに気がつく。即ち、ものごころが完全についたのだ。」とも言います。(「回想」)
春夫はこの年4月、新宮尋常小学校に学齢より早く変則入学しています。4月9日生まれの春夫は、学齢通り通学させるよりも早い目に通学させる方が有益だろうと考えての父親の計らいだったようです。