おぼろげ記憶帖 28~パリの家探し

用意されていたアパートは16区のロダン広場のすぐ近く、ロダンの小さな彫刻があり、住所を言わなくてもすぐに判る場所でした。二人が暮らすのには申し分のない広さで一つのフロアーに二軒というこじんまりした建物。持ち主はシリア人の銀行家で向かいの部屋はその人のパリの家で住んではいませんでした。一度だけお会いしたことがあります。ただ会社としてフランス人を招いたり、事務所の人達とパーテイを開いたり対外的に日本からのお客様を接待するには狭く、家探しを始めることになりました。私達が出た後その部屋は2軒の間を取り外し、息子さんがパリの大学に通う為に1軒にリフォームされたと聞きました。銀行家の財テクは国をまたぎ、時間を越えてされるという事にさすがはお金持ちと感心もしましたが、陸続きのヨーロッパで国と国の関係が悪くなった時はどんなことになるのであろうかとふと懐かしい家のことを思い出します。

いよいよ家探し。不動産屋に頼むという方法もあったのでしょうがどういう訳か自力で探すことになりました。毎日”Figaro”(新聞)の配達を頼んでいました。キオスクで新聞を買うのが一般的でしたからそれは大変贅沢なことでした。月曜日の貸家の欄を目を皿のようにして眺めて町名・交通の便・広さ・間取り・暖房と給湯の設備。勿論家賃。色々な面から検討します。赤鉛筆でマークし、事務所の秘書に現地に行く旨を連絡して時間のランデブーを取ってもらっていざ現地へ。本来は秘書の仕事ですがそれぞれ忙しく仕事をしていますから時間を取るのは気の毒でした。それに自分の住む家です。パリは地図さえあればどこへでも間違いなく行きつける何とも合理的な素晴らしい街なのです。パリ見物を兼ねて次々と歩き回りお蔭で地理をよく覚えました。目ぼしい物件に出会うと不動産屋に連絡をするという段取りです。ここでも言葉で難儀をしました。日本語で夫に伝え、英語かフランス語で秘書に伝え、フランス語で不動産屋へ不明な点を聞いてもらい、まずまずと思ったら再度私達と秘書で現地へ行くという事を何度繰り返したことでしょうか!そうしてやっとのことでアパートが見つかったのでした。お蔭で家探しは上手になりあとから赴任してきた若い人たちのアパートも秘書の手助けを受けながら決めることが出来ました。

国によるシステムの違いは仕方ないとしても言葉が出来ないというハンデキャップほど困ったことはありません。日常の会話とは異なり電話を掛けること・交渉をすること・医学的な会話は相当の勉強は必要です。私のパリ生活はいつも言葉がネックになっていて勉強しなかったのだから当然のことですが悔しい・情けない思いばかりでした。これからの若者たちは国際的に生きるために是非どこの国の言葉でもいい!勇気を出して教わり喋って欲しいと願っています。

(写真はガラス屋根のメトロの入り口とキオスクです。)

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