佐藤春夫の少年時代(16)

・父の医学修業と新宮での開院(7)

元治元年(1864)生まれで、代々太地の地の医家の息子で、勝浦で開業していた長雄道二の私家版「漫筆」(昭和9年2月)の中に、「熊野と病院」と題した次のような文があります。道二は豊太郎より2歳年下ですが、幼いころから切磋琢磨した仲で、先に「老父のはなし」に出てきた那智山下井関村の長雄友諒は道二の叔父で、豊太郎も道二も薫陶を受けています。道二も和歌山の医学校に学んだ時、豊太郎と同じ竹田家に止宿、「或夏佐藤豊太郎氏に随伴して根来に至り、一廃寺を仮りの宿と定め起き臥しせしことありき。」と言っています。

「我が熊野に於ける病院の元祖は明治二十年時代に佐藤豊太郎氏の設立せる熊野病院にして、規模広大ならざりしも、遉(さすが)は地方に於ける唯一の治療機関として将(はた)又斬新の治術を渇望せる時代の寵児(ちょうじ)として、引く手あまたの繁盛振りは佐藤の敏腕を事実の上に表はして、多年の奮闘遂に絶大の効果を獲得して熊野杏林界(きょうりんかい)の花と謌(うた)はれ王者と仰がれたり。然るに処世に巧(たくみ)なる彼は何を感じ何を策してか、突然病院を捨てて北海の国に躍進せしが幾何(いくばく)もなく帰郷して、祖父以来顧みざりし懸泉の清水(しみず)にゆあみしつつ世外に超然たり。予惟(おも)ふ渠(かれ)は沈思遠慮小心膽大にして経済的観念強く進退去就に吝(りん)ならざる人なり。蓋(けだし)今日の大を致せる是等諸因の化学的飽和作用に因(よ)らざるはなし。予曽(かっ)て佐藤に倣(なら)はんとして能(あた)はず遂に糟糠(そうこう)を嘗(な)む。今にして之を懐(おも)へば実に夢のうき世に夢を視(み)し心地ぞするなり。」

「吝(りん)ならざる人」とは、惜しむことはない、悔やむ事はないの意ですが、道二は旧知の間柄である豊太郎の生き方の大胆さ、豪気さにやや不安を感じながらも、ある意味羨望の念を抱いていることも分かります。

丹鶴山下の景(『今昔・熊野の百景』より)(お濠の手前右が新宮町役場。通りをはさんで熊野病院。天理教会の屋根もみえる。熊野川の向こうは三重県の山々)

熊野新報記者であった永広柴雪(えひろさいせつ)は、熊野病院が建設された頃の思い出を「新宮史話」として綴っています(「紀南新聞」昭和32年7月9日付)。それによれば、病院の横の登坂の道路は急坂で、左側には民家はなく、右側お濠の土手の上に小さな木造平屋の新宮町役場がありました。役場から向こう右側に三勢文という木賃宿ほか、3、4軒の民家が並び、共同井戸があってそこを右に折れ、椎の木林の山道伝いに伊佐田に通じていました。
城の山裾を開いて石積み工事を行い、そこに建てられた熊野病院は、速玉神社の鳥居と向き合う形で西側に面し、前の石段に二筋の石が敷かれているのは、人力車の運行の便宜を考えてのものでした。正面左側は仲之町方面にかけて芝生の土手が続いていました。土手の向こう左側には、「お下(しも)屋敷」と呼ばれる下級武士の長屋があり、通りに面して武家屋敷特有の真ん中に横木が入った「曰(いわ)く窓」付き(「曰く」の漢字が横に棒が一本入っているとことからこの呼称がつきました)で、2、3ケ所に入口がありました。やがて中学時代の春夫らの溜まり場にもなる「お下屋敷」です。
永広はまた、宴席での豊太郎の様子も伝えています。
東牟婁郡医師会の総会は瑞泉寺(大寺)と決まっていて、「酒も可なり強く」(下戸であった春夫とは対照的です。)酒席では頼山陽の「鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)夜河を過(わた)る」の詩吟を朗唱したと言うことです。武田信玄と上杉謙信との「川中島の戦い」を題材にした、頼山陽の漢詩「不識庵機山を撃つの図に題す」の謡い出しで、不識庵とは上杉謙信の法号、機山とは武田信玄の法号で、謙信の軍勢が機先を制して夜中千曲川を渡った様を叙しています。一方で、老妓の三味線で端唄(はうた)物などもうたったということです。端唄と言うのは江戸時代に流行した三味線音楽としての小唄類で、特に「紀伊の国は音無川の水上に立たせたまふは船玉山(せんぎょくざん)」ではじまる端唄「紀伊の国」は、幕末に大流行しました。作者は、新宮藩の江戸詰め家老関匡と玉松千年人兄弟が作り、二世の川上不白が校閲したものであることを、小野芳彦が調査、それを受けて南方熊楠が「民俗学」(昭和5年7月・8 月・10月)に発表しています。豊太郎が愛唱したのも「紀伊の国」だったのでしょうか、硬軟取り混ぜた対応と言えます。
このころ、瑞泉寺の本堂は新宮では一番広い空間で、さまざまな集会が催されたようで、町議会の議場にもなっています。
熊野新報社社長で医師でもあった宮本守中は、長く医師会会長を務めた関係で、永広も記者としてではなく、会長秘書のような役割で総会に参加していたようです。
禄亭大石誠之助が拘束されて東京に護送されてゆくとき、人力車の上から永広柴雪に投げかけたという「門外先生によろしく」との最後のことば(「熊野誌」6号・1961年7月)は、門外と号した医師仲間の宮本守中のことです。宮本はいわゆる「改革派」の領袖で、明治38年3月から翌年2月まで新宮町長を務めています。
佐藤豊太郎が新宮の地で開院していたのは、北海道へ行って途中閉鎖していた時期があるとは言え、明治19年から大正11年までのことでした。
例えば、「牟婁新報」明治39年1月24日付2面には「○熊野院長解任 東郡新宮町の熊野病院長医学士森田槇太郎氏は今回院務の都合により解任となり去廿日東郡を発し東京に向ふ」の記事が出ています。解任の理由等、これ以外の事はまったく不明ですが、明治41年病院を一時閉鎖して青木眼科医院に貸与したことと言い(春夫全集の年譜では明治40年とありますが、41年が正しい)、豊太郎の北海道行きと関連していることは間違いがないでしょう。豊太郎の北海道での農場経営も、任せていた人に背かれたりしたことなどもあって、順調であったとはいえず、本拠を止若から十弗に移したりしています。十弗で診療所のようなものを設けたこともあるようですが、大正期に入って再び熊野での病院経営に力を尽くし、新しく耳鼻咽喉科の医師を招いたこともあるようです。
大正6年10月と言えば、豊太郎は熊野での病院を再開していたのでしょう、北海道の農場の問題の処理に妻政代が派遣されたことがあり、東京から春夫も同行したようです。さらに春夫は、大正13年8月今度は弟の住む北海道の農場を訪れています。その折の体験談が、蜜蜂を飼う男の話「雁の旅」(昭和12年4月「中央公論」)です。母親の姓である竹田を継いだ弟夏樹は、慶応大学理財科で学んでいた時から、演劇や映画に興味を深め、小山内薫の劇活動に係わったこともありました。しかしながら関東大震災の災禍はそれらの道を断念せしめ、北海道の父の農場に定住することを決意させます。30歳の時でした。土地の人が、風が強くてとても住宅には向かないという豊頃町十弗の高台に居を構え「馬耳東風荘(ばじとうふうそう)」と名付けます。馬の耳に念仏、周りの人の言うことには耳を貸さない、という意味を込めたものです。しかしクリスチャンとして地域の人たちの厚い信頼を勝ち取り、近所に郵便局がなくて不便だと土地の人々が言うので特定郵便局を作ったり、隣町に池田女子高校(現江陵高校)が出来たときには校長に就任、昭和33年1月春夫はその学校の校歌を作詩、息子の方哉(まさや)が作曲を手掛けて贈っています。
春夫の最晩年の作品「わが北海道」の「序章 ふるさとの思ひ」では、「この土地には父母とつながる思ひ出が多い。しかも、熊野の地にゐる時の父母よりもかへつて印象は深かつた。/そもそも、ふるさとといふのは縁故のある土地といふ意味だから、生れたのもふるさと、育つたのもふるさと、住んだところもふるさとと呼んでよいのである。さういへば、北海道の十勝は、ほんのふた月あまりであつたとは言へ、わがはじめて住んだ他郷であつたから、一種のふるさとには相違なく、その時は家族みんな揃つて住んだため他郷ながらも今になるとふるさとの感がふかいのでもあらう。」と述べています。

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