おぼろげ記憶帖 27~2度目のパリ生活 (2)
1969年7月に帰国して以来20年の間隔を経ての赴任です。もともと片言しか話せないフランス語。二度と話すことはないと思っていました。飛行機に乗ってすぐに時計を現地時間に合わせ、映画をフランス物に設定して離陸したら外国と潔く決めたのです。そうでもしなければ今までの落ち着いた暮らしを断ち切ることが出来ず一大決心の旅立ちでした。朝早くドゴール空港に着き、社宅として用意されていたアパートにスーツケースを置くなりシーツやタオルを買いにデパートへ行きました。
1月は”白いもの”のセールの月であることを覚えていました。家具付きのアパートでしたからその日から生活が出来るようになっていました。少しずつ単語が思い出されて食料品やパンも買ってその日の夕食を作り、レストランへ行くことはありませんでした。文法をきちんとわきまえていない私は身体で言葉を覚えていたのでしょう。その場所、その環境の中に身を置けば何とか思い起こせることに気が付いたのでした。その時肉屋のおじさんがシチュウやポトフ―など肉の塊を使う時はジゾル(ナツメグ)のフォールを3つ玉ねぎに刺して一緒に煮ることを教えてくれました。どういう効果があるのかは聞いても理解できずそのまま素直に信じて何十年経った今もそれを守り続けています。
赴任後30日、ルアーブル港に引っ越し便が到着したとの連絡が入りました。ずっと以前はスエズ運河を通って45日、マルセイユ経由で荷物は届いていたのでした。どの航路を通って来たのでしょう。思ったより早い到着でした。それでもなお出来るだけ早い配達を頼み、すぐ開封と書いてある段ボールから開け始め、残りを居間の中央に積み上げた頃父の訃報が届きました。いつでも飛行機に乗れるように日本行きの便をいくつも予約してあったのです。
慌ただしい一時帰国でした。その日は昭和天皇の葬送の日に重なり、成田で物凄く厳重なボデイチエックを受けて通関。友引と重なりお通夜にも間に合い、葬儀も列席することが出来ました。外地に居ては中々このように物事がスムーズに運ぶという事は少なくて私は最初の滞在中に育てて貰った祖母を亡くして悲しい思いをしたことがあります。その経験から間に合った事が本当に良かったとホッとしたのを覚えています。父は昭和天皇のことを尊敬していましたからこれは殉死かも知れないと話したことでした。何かしら昭和天皇に重なり本当に鳴り物入り?!の二度目のパリ生活の始まりでした。
(写真はパリの有名百貨店プランタンです。)