父の想い出~3 . 巨人・阪神

昭和33年栄光の巨人軍に入団以来、日本人の心を鷲掴みにしてきたミスター・プロ野球、長嶋茂雄が大好きでした。和歌山県新宮市、田舎で生まれ育った私は、当時、家にまだテレビがなくラジオにかじりついてその活躍ぶりに胸をワクワクさせていました。

そのうち、近所のお金持ちの家(木材会社経営)でテレビを見せてもらった時に画面から伝わって来たあの躍動感は他の選手とは全く違ったものでした。今でもたまに当時の白黒映像を見ることがありますが、やはり長嶋(当時はまだ「長島」と書いた)一人だけ輝いて見えました。

小学校時代は明けても暮れてもソフトボール。少年野球チームはまだなかったですが、学校ではクラスで、帰宅後は近所でチームを作っていました。今のように子供用のユニフォームを着ているものなど一人もいなく、せいぜい好きなチームのマークの付いた野球帽だけでした。

実況中継は、澄んだ声が印象的な志村正順アナウンサー、解説は「何と申しましょうか」で有名な小西得郎。いつもこの二人のモノマネをしたものです。二人の声は今でも耳に残っています・・・。

そしてその昔、北海高校と同じく古豪と言われた新宮高校野球部から甲子園へ出場するのが夢でした。中学に上がると早速野球部に入部。登校前と放課後の練習は思いのほか厳しく、昔のことですから今は禁止されているウサギ飛びなどは当然のことでした。

毎日、朝4時に起きて、近くの蓬莱山の石段の上り下り、また、別の日には、新宮川の砂浜を細かい砂に足を取られながらOKが出るまで走り続けました。この苦しさを乗り越えないと上に行けないと信じていたので諦めずに頑張りました。

そして、半年後、野球部全員が身体検査を受けることになりました。結果、私は急性腎臓病(ネフローゼ症候群)を発症しており、即、退部させられました。しかも一人ではなく同級の1年生合計9人が同じ病気でクビになりました。練習がいかに厳しかったかの証拠です。青春の夢がたった半年で儚く消えてしまったのです。

プロ野球選手になりたいという夢はあっという間に消えてしまいましたが、ジャイアンツ愛はずっと続き、その後もずっと巨人ファンでした。

高校まで実家から通っていて、大学進学とともに初めて親元を離れることになりました。学生時代は下宿生活、一人暮らしの寂しさはありましたが友人も出来てそれなりに楽しんでいました。

初めての夏休みに帰郷した時、ふと見ると親父がテレビで野球を見ています。阪神の選手が映っていたので巨人阪神戦かと思って横から見ると、巨人戦ではない!今日は試合がないのと親父に聞くとすぐにチャンネルを切り替えてくれました。相手がどこだったかは忘れたましたが、巨人戦を見ていなかったのです。驚いたことに、何と親父は根っからの阪神ファンだったのです。

この時の驚きは今でも忘れらません。長嶋がどうのこうのと仕入れた話を親父に言うと、そうそう凄いよな!と調子を合わせてくれました。だから、てっきり親父も巨人ファンだと信じ切っていたのです。私が家にいる間は巨人ファンである私のために自分が阪神ファンであることを隠していたのです。

何もそこまでしなくても。普通、一家の主ならテレビチャンネルの選択くらい我を通してもいいのでは。何と言っても毎日懸命に働いて一家を喰わせているのですから。それが・・・。

このことを後で母に確かめると、私が親元を離れて以降、親父はずっと阪神戦を見ていたそうです。そういわれてみると、他にも思い当ることがありました。何かについて話をした時も、私の考え方、意見をよく聞いて、間違っていないと思う限りはうんうんとよく頷いてくれました。たかが、テレビチャンネルの話ですが、そんなところにも親父のやさしさがありました。

もちろんたまに口喧嘩したこともありました。普段物静かな親父が、ある時、驚くほどの大声をあげたこともありました。しかし、親から何かを押し付けたりすることはなく、すべて私が思うように自由にさせてくれました。

後になって思うと、息子の成長をじっと見守ってくれていたことを実感しました。親元を離れるまでそれに気付かなかった自分は随分子供だったと思いました。そして親父のやさしさにようやく気がついたのでした。

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