佐藤春夫の少年時代(8)
父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(4)
春夫にとって「懸泉堂」は、父祖伝来の地、そこを歌った作品の代表としてまず挙げられるのは「故園晩秋の歌」です。散文詩風な表記で、文語の長歌形式を取り、短歌形式の「反歌」が添えられています。
春夫自筆の「故園晩秋の歌」
初出は大正13年1月号の「婦人之友」で、副題に「水墨集の著者に」とあります。「水墨集」は北原白秋が前年の6月に刊行した詩集で、代表作「落葉松(からまつ)」などが収められ、日本的東洋的な枯淡を目指しているとして話題になりました。この作品は、4月新宮で刊行された文芸雑誌『朱光土』にも「古園晩秋の歌」として再録されています。
「故園晩秋の歌」は大正15年3月に第一書房から刊行された「佐藤春夫詩集」に収められています。なお、「南紀芸術」2号(昭和6年11月)にも転載されますが、それぞれの表記には異同があります。「佐藤春夫詩集」から引用してみると(意味上、アキを作ってみました)、
「ふる里のふりたる家のあはれなる秋のまがきは人ありてむかし植ゑにししらぎくのさかりすぎたり あれまさる桑のはたけは人ゆかぬ畔(あぜ)のかたみち釣鐘の花かれにけり 古井戸の石だたみには人しらぬ鶏頭の花うつぶせにたふれさくなり ひとりただ園をめぐりてとほくゆく雲をねぎらひうつつなる秋の胡蝶をあはれみてわがたたづめば山ちかみくるる日はやし
反歌
ふるさとのふりたる家の庭にして晝(ひる)なく蟲(むし)をきけばかそけし 」
懸泉堂はすでに使命を終えた佇(たたず)まいで晩秋を迎えています。初出では、「白菊の花さかりなり」であったのが、「さかりすぎたり」になり、「釣鐘の花生ひにけり」が「かれにけり」になり、初出にはない「ひとりただ園をめぐりてとほくゆく雲をねぎらひ」が挿入されています。佇まいの荒廃ぶりや寂寞(せきばく)がより増して表現されていると言えます。そうして、長歌の最後は「山ちかみくるる日はやし」は、山が近いので日が暮れるのも早い、の意です。初出では「山近み」となっていました。この山は、懸泉堂の西側にある大丸山と呼ばれるさして高くない山でしょう。山裾から椿が植えられていたことから「椿山」という号が生まれ、婿養子で入った駿吉は、「大鞠山」の漢字を当て、自身も「鞠峯」と号したのです。
鞠峯(二代目百樹。明治45年冬撮影)
ところで、「くるる日」の「る」がひとつ欠落した「くる日」となって、ミス表記したのが、昭和7年1月刊行の改造社版「佐藤春夫全集」第2巻でした。以後、講談社版全集(昭和41年4月)、臨川書店版全集(1999年3月)にも誤りが踏襲されています。
春夫には、「懸泉堂の春」という文語調の短文もあって(大正15年1月「婦人之友」)、病後を養う老父が素描されています。
春夫がこの頃、父や懸泉堂を描いたのは、父が懸泉堂の家督を継ぎ、懸泉堂に隠居して、春夫は帰省のたびにここが滞在先となることが多かったためです。
辻本雄
一~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を「ハイム文芸館」に転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。 (西 敏) |