シンゴ旅日記インド編(その73)我輩は牛でんねんの巻初めまして(上)
モーぅし、モーぅし、そこのおっさん、こっちゃや、こっちゃや。
なにキョロキョロしてまんねん。我輩ですがな。
目の前の牛ですがな。分りましたか。
えっ、なんで牛が言葉しゃべっとるってですか?
ちゃいまんがな。テレバシーちゅうもんでんがな。
声出さんと我輩の頭からあんさんの頭へと直接話してまんのやで。
この能力な、一部の動物かヒトさんにしかできませんのや、神さんがくれたんですわ。
我輩の家系ちゅうか牛系がその能力もろうてまんのや。
神様から内緒にしときやー言われてまんねん。
そやからヒトさんには話かけたら本当はあかんのですわ。
せやよってに、このこと内緒にしといてね。
そんなん、我輩が言葉を話せるゆうことが分かったら『言葉をしゃべる牛』ゆうてテレビに出なあかんがな、綺麗な女優さんとドラマ共演しなあかんがな、写真集出さなあかんがな、DVD出さなあかんがな、我輩困っちゃうな、モウ。
でもな、そうしたら、あかんのですわ、神さんとの約束ですさかい。
よって、いつもどんなこと聞いても知らん顔してまっせ。
そやけどな、声掛けるときに口をモグモグって動かす必要があるんですわ。
このこと内緒にしといてね。ほんまに。
えっ、そんなら、何であんさんに声掛けてるのかって?
すんまへん。日本のヒトとちゃうかなと思ったんで、知らんうちに声が、いやテレバシーが出てしモウたんですわ。
我輩ね、実はね、内緒にしといてね、日本のコーべの牛とのハーブでんのや。
ワギュウの血が入ってまんのや。
つまりオトンがワギュウで、オカンがインギュウでんねん。
なんでかちゅうとね。戦争前ですわ、戦争ゆうても中印戦争とか印パ戦争と違いまっせ、その前の第二次世界大戦でっせ。
そのころ日本とインドは仲が良かったんですわ。
そんなんで日本の食糧事情が良うないんちゅうんで、インドと日本の牛の交配をさせて、ちょびっとの草でぎょうさんの肉の取れる牛を作ろうちゅう内緒の計画があったんですわ。
インドの牛は粗食やさかいにね、これワギュウ+インギュウ=ワインギュウ計画て言いましたねん。
これも内緒の話しでっせ、誰にも話したらあきませんで、疑われまっせ、あんさん捕まりまっせ、憲兵に、特高に。あれっ、そんなもん、もうありませんてか?
あんさん、そんな計画あったことを知りませんてか?
まぁ、よろしいおますわ。戦争前のな、日本の食糧改善計画ちゅうわけですわ。
そんで日本のコーべや、マツサカや、センダイや、ヒダや、タジマやらいっぱい牛たちがここに連れて来られたんですわ。
でもね、その計画ね、日本が戦争に負けはったんで中途半端のまんま終わってしもうたんですわ。
インドもイギリスの植民地に戻ったり、お金がないさかい日本から連れてこられた牛や、生まれた我輩らをそのまんま、ほったらかしにしたんですわ。
そんで我輩ら子孫がインドに散らばっておるちゅうわけですわ。
我輩らは戦争孤児、いや戦争牛児でんな。
あれっ、年が判ってしまいがんがな。けど吾輩のオトンもまだ生きてまっせ。
あれっ、オトンいくつになったんやろナ、そう言えば日本が中国かロシアに勝った時に提灯行列がコーべの街を埋め尽くしたのをロッコーの山から子牛ながらに見たことあるて言うてましたで。
オトンな、最近は昔の日本は良かった、良かったでぼやきながら草食ってまんのや。
もう年なんやろね、
きっと。そんなんでオトンから日本のことを、オカンやジージ、バーバからインドのことを道端で一緒に食事しながらよーけ聞いて育ったさかい、いろんなこと知っとりますんや。
日本の戦争ゆうたらチャンドラ・ボーズさんですな。
えっ何教の坊さんやてか?坊さんとちゃいまんがな。
日本軍と一緒にイギリスと戦ったヒトですがな、あのインパール作戦ですがな。知りませんか、あの作戦?
きょうびの日本のヒトは何も知りませんな。
でもあんさんくらいの年やと知ってると思うてましたがな。
へぇ、戦後生まれでっか?我輩より若いんですか?
あんさん、見た目は老け取りまんのにな。放っといてくれってですか。
すんまへん。あんさんら、あの戦争のこと詳しく学校で習ったことないってですか?
いつも歴史の時間では昭和の戦争になると時間がなくて駆け足で授業進んでいくってでっか?
先生たちが戦争のことあんまり教えてくれんかったったでっか?
おかしな国でんな。
自分たちがしたことを、きっちりと子供たちに教えていかないかんのにね。
まぁ、ええですわ。あのね、日本が大東亜共栄圏やゆうてアジアのみなさんに声掛けて一緒にがんばろうって叫びはった頃にでんな、インドでもイギリスと戦って独立しようちゅうグループがあったんですわ。
日本で有名なガンジーさんね。このヒトのことは当然知ってはりますやろな?
えっ、詳しくは知らんて?学校の図書館にありましたやろ、この人の伝記が。
まぁ、ええわこれも。ガンジーさんとボーズさんは同じ国民会議派ちゅう仲間でしたんや。けど二人は考え方が違うたんですわ。
ガンジーさんは暴力はあかん、我慢や、辛抱やゆうて独立をしようとしはったんですわ。
でもねボーズさんは、それではあかんて言いはってな、ドイツへ亡命したり、潜水艦で日本に運ばれはったり、シンガポールで日本の捕虜になったインドの兵隊さんとインド国民軍ちゅう軍隊つくって総司令官になりはって、そんでインパールに行かはったんですわ。
さしずめ日本の同志、戦友、盟友ちゅう訳でんな。
けどボーズさんな終戦の年に台湾上空で飛行機事故で死んでしもうたんですわ。
かわいそうにね。
その遺骨が東京に保存されてまんねん、そして多くのインドのヒトたちがそのお寺さんにお参りに行かはるんでっせ。
そやそや、あの戦争ではインドは連合国側やったから戦勝国でんがな。
でも知ってはりますか、インドは日本に賠償を求めへんかったんですよ。
インドネシや他の国はようけ貰いなはったな。
でもインドは要らんゆうて放棄したんですわ。
日本もそれに応えてな、お金ができてからお金貸してくれはったんですわ。
円借款言うんでっか?1958年くらいやったと思いますわ。早い時期ですわな。
そして2年後には皇太子さんが奥さん連れて来られましたんや。綺麗なヒトでしたな、ミチコさん。きっと日本のヒトたちがインドにありがとうって言いたかったんやね。
日本のヒトといえばミチコさんの旦那さんヒトという名前が付いてましたな。
あんさん、聞いとりまっか?
戦争についてもうちょっとしゃべってよろしいか?
あの戦争の後に裁判あったん知ってはりまっか。インドのパール判事知ってはりますか?えっ、知らんてですか。ホーン。
戦争終わった後の東京裁判で裁判官の一人でしたんやが、あんまり長い判決書を書いたさかい、アメリカさんから読むこと許されず和訳も許されへんかったんですわ。
『A級戦犯』は全員無罪や、アメリカの原爆投下は国際法違反やって指摘しはったんですわ。
インドのヒトは日本が昔に中国やロシアと戦って勝ったことにごっつい共感と尊敬する気持ち持ってはったんですな。
あんさん、トルコなんか生まれた子供に『トーゴー』とか『ノギ』ちゅう名前を付けたらしいですよ。
そんで、東京裁判がおかしいって声出して言ったんはインドだけでっせ。
このパールさんの記念碑が日本の各地にが建てられているって知ってはりますか?
日本のヒトたちが尊敬しはったんですわ。
ソンノージョーイのお侍さんとおんなじ心持ちやゆうて京都の東山霊山にもあるんでっせ。
ところであんさん、最近ここらへんでよう見かけますな。いつも休みの日にカメラぶら下げてあっちゃ、こっちゃ写真を撮ってますやろ。生まれはどこでっか?
ギフ県?そうでっか。あんさんの国では、久しぶりってのを『やっとかめ』ていいますやろ。『八百十日目』って書くんですって?
おもろいことばですね。
じゃ、やっとかめでんな。
違うって?『やっとかめやなも』っていうんでっか?難しいでんな。
えっ、なんでそんなん知ってるかって?
先に言いましたやろ、ヒダのハーフ仲間がおりまんのや。
奴といつも話してまんねん、仲がようおまんねん。そやさかい、時々ギフ弁を教えてくれまんのや。
(下)につづく
丹羽慎吾