佐藤春夫の少年時代(20)
母方の系譜と春夫の「初めての旅」(4)
実さんがアメリカへ渡ってから5、6年、ある年の暮近く、実さんから久しぶりの便りがきます。他に、「例の母の嫂(あによめ)の兄」からの便りでは、実さんは「肺病」が悪くなって日本に帰りたいのだが、旅費に困っていると書いてありました。
それから1ヶ月半後、実さんは「父の家」に帰ってきて、離れで養生することになりました。お土産として買ってきた12個の缶詰めのうち1個が膨れあがっていました。それは腐っていると言って、父は開けてみると大変な異臭がして人の指が出てきました。缶の中から出てくる人間の指、ややグロテスクな感じですが、「実さんのことを考へると、きつとあの気味の悪い指の罐詰のことも思ひ出す。どんな人の指であらう、わざわざ日本まで来て私の家の空地の隅へ埋められたのは。」とあります。後年の、プロレタリア作家葉山嘉樹の名短篇「セメント樽の中の手紙」の哀愁に通ずるものを感じさせられますが、こちらは出てくるのは、女工の手紙ですが。
タイトルの「胡弓」は、最後にしか出てこないのですが、「それは罐詰の罐を上も底もくりぬいてしまつて、その上を油の滲(し)みた画学紙で張り、竹の棹をすげて、絲(いと)は針金でできてゐた。」という手細工の胡弓です。「私」は仕切りに実さんの部屋を訪れ、アメリカでの経験を聞かせてもらっているうちに、急に黙って胡弓を弾き出したりするのです。そのうち離れへの出入りを禁じられてしまいます。縁側で日向ぼっこをしながら、実さんの胡弓が漏れてくるのを聴き続けています。「その後二三年して実さんは死んだ。多分二十六七であつたらう。今ゐたらもう四十になつてゐるであらう。」で「実さんの胡弓」は結ばれています。
豊太郎を頼ってくる母の一族と言えば、春夫の「ただ一人の従兄」、伯父の故竹田槌五郎の家族のことがあります。槌五郎の死去4、5年後、妻「カメノ」と遺児「達」、それに槌五郎や政代の母「とみゑ」が、和歌山から新宮にやって来ます。明治21年生まれで春夫より4歳年長の従兄は、城跡のお城山周辺の遊び相手としては格好の友人になってゆきます。明治34年4月から和歌山県立第2中学校(田辺中学)新宮分校が設置されることになり、「わたくしの父は義兄の遺児のために学資を和歌山へ送る代りに、手許に置いて勉強させようといふつもりで一家を新宮に呼び寄せたもののやうに思へる。三人を呼んでみたが、家に置くことはしないで、家からあまり遠くない場所に借家を一戸借り与へて住まはせたのが、登坂を越えて向う側、熊之地の入口のさびしい場所で、お城山の東にある森と小山と三方を山や丘や森に囲まれて、南の一方だけはひらけた袋小路の奥のやうな、町の発展から取りのこされた盆地であつた。」(「追憶」)。先に祖母は父の家に同居しており、春夫が部屋をよく訪ねたという記述もあったことから、この家には母子だけが住んでいたのかも知れません。それは小浜(おばま)へ抜ける道にも通じていたのでしょう。「従兄はその後五十年足らず生きてから、戦時中に胃癌で死んだが、その頃からひどい胃病で癌の心配をしてゐたものであつた。胃病の治療策として彼は運動熱心で野球に熱中してゐた。小さなわたくしが中学生の野球仲間に加はつたのも従兄がゐるからであつた。しかし従兄もわたくしとともに野球をすてて、それに代へて散歩をしようと云ふので、外に仲の好い友達もなく、いつもわたくしを散歩に誘ひ出したものであつた。」それから毎日のように、「わたくし」がいままでほとんど隈なく知り尽くしていたつもりのお城周辺の間道を次々と見つけ出していったと言います。「従兄とのこの散歩は十歳のごろのわたくしの軟い頭に深く刻み込まれてゐると見えて、その崖の径やその下に大きく渦巻いく青い淵など、その後久しくわたくしの東京での夢のなかに現はれたものであつた。」と言います(「追懐」)。
この従兄の住まいは、春夫の後年の作品「わんぱく時代」で描かれるお昌ちゃん母娘の住んでいる佇まいに投影され、間道を散策した経験はわんぱく少年たちの行動に描写されていったのだ、と言えます。
写真上:登坂から小浜へ越える峠道
写真下:この下が小浜、熊野川の向こうは三重県。いずれも久保嘉弘撮影で昭和30年代の風景。佐藤家に残されていた写真で、春夫が「わんぱく時代」執筆にあたり、中学校の同級生久保に依頼したものと思われる。
春夫の作品で母親にスポットを当てたものに「慈母の恩」(昭和21年1月「芸苑」)があります。次男や3男が主に乳母に育てられたのに比べて、春夫は「自分は十ぐらゐまで母の乳をふくんでゐたもののやうである。」と言います。この作品の最後の方で、生前は子どもにも話さないでほしいとあったので、母の死後父が、母が幼い時養子に出され興行師に回されて得意の薙刀を曲芸風に行い、客の人気を博していたという母の秘話を語る場面があります。父は「お前たちの母といふ人は子供ながらにさういふ苦労にも堪えた人だつたといふ事を知らして置きたかつたからである。」と結んでいます。
厳格な父と優しい母、春夫は少年時代から優しい母に救われて何度かの窮地を潜り抜けることが出来ました。生来神経質であった春夫の行いに、親身に寄り添ってくれた母が年を追うにしたがって、その恩を春夫自身も肌身に感じ取っていった様子が、エピソードを交えながら語られているのです。