佐藤春夫の少年時代(19)
・母方の系譜と春夫の「初めての旅」(3)
既に取り上げた長雄道二の私家版「漫筆」という冊子本に、「竹田と鈴木」と題する項があり、そこには、「吾が勝浦に小学校を創設せしは明治八年なるが、明治二十年新小学校令実施に因り勝浦小学校と改称し、同三十五年高等科を併置して勝浦尋常小学校となす。其の間訓導の更迭屢(しばしば)ありしも明治八年就任の竹田槌五郎と明治二十年就任の鈴木珍丸とが任期最も長かりし。而して竹田は資性高潔国士(こくし)の風格を備へ、鈴木は剛毅朴訥近仁(ごうきぼくとつ・じんにちかし)の性格ありし。」とあります。現在勝浦小学校に残る記録によれば、竹田槌五郎は明治21年赴任したように受け取れるのですが、それは明治19年の小学校令施行後の記録であって、実に明治8年という早い時期に赴任していて、和歌山で南方熊楠を教えた、そのごく直後と言うことになります。
勝浦小学校は明治8年12月13日正念寺において開校式を挙げていますから、児童40名教師2名であったといいます、この2名のうちの一人が竹田槌五郎であったと言えます。同10年9月海翁寺に校舎を移転、15年10月26日脇の谷に校舎を新築、那智小学校勝浦分校と称しました。21年4月1日、2学級69名で、勝浦村立尋常小学校と改称しています。
これまでは春夫の言などもあって、漠然と妹政代が佐藤豊太郎に嫁したことなどが機縁であろうと推測されてきたのでしたが、長雄の発言の方が信憑性は高いものがあります。豊太郎や長雄道二が竹田家に下宿したのも、槌五郎を介してのものであったかもしれないし、熊野から和歌山の医学校で学ぶ人脈のようなものができていたのかも知れません。
まだ正式な教員資格のようなものも存在せず、全国に小学校を普及させるに当たって、巡回教師の制度なども行われたらしく、槌五郎と勝浦との関係もそんなかで実現したのかも知れません。勝浦小学校の自立の功績が評価されたのでしょうか、長年の勝浦での実績があったればこそ、村長にも推されたのでしょう。槌五郎が勝浦小学校訓導を辞職するのは明治23年7月18日、この年9月24日から25年4月1日まで勝浦村村長を務めています。妹政代が長男春夫を出産して、喜びのあまり駆け付けてきた4月9日以降は、まさに村長を退いた直後だったのです。
豊太郎の新宮での開業、熊野病院の開院など、その成功もあってか、政代の実家竹田家ゆかりの人々も、豊太郎を頼って新宮にやってきました。豊太郎も十分に面倒をみたのでしょう。政代の妹熊代も比較的早くから同居していたようです。
大正12年7月1日発行『赤い鳥』(赤い鳥社)
「実さんの胡弓」の頁
春夫の作品、「実(みのる)さんの一族は、私の母方の遠い親戚に当つてゐる。実さんのお父さんは事業に失敗してからは、私の父をたよつて海を渡つて来た。さうして私の父の病院の会計をしてゐた。」で始まる「実さんの胡弓」(大正12年7月「赤い鳥」)は、童話風の哀切極まりない話です。
実さんは、姉と弟3人の5人兄弟でしたが、母と父とが相次いで亡くなってしまいます。「五人の兄弟は皆そろつて私の父に引取られた。」実さんは15、6歳の時、アメリカへ行くのだと言い出しました。「私の郷里の方では渡米熱が盛んで、みんなそこへ出稼ぎに行つたものだ。」周りの者はまだ子供だからと反対しましたが、実さんは頑として応じませんでした。母は実さんの心持ちを推し測って「あの子だつて、そんな遠いところへ好んで行きたくはなかつたにきまつてゐる。ただ親がなくつて兄弟が四人もよその家で世話にならなければならないのがいやだつたのだらう。それに較べるとお前など仕合せなものだ。」と、「私」はよく諭されたと言います。父の洋服を仕立て直したりして実さんは出発していきました。町外れの森の中にその姿が見えなくなった時、母は「癪(しゃく)を起した。」、以来母の持病となったと言うことです。「癪を起す」とは、胸や腹が急にさし込む痛さに見舞われることです。
実さんは父が神戸から乗船するように勧めたにも関わらず、東京見物でもしたかったのでしょうか、横浜から乗船し、直後に横浜でコレラが流行、神戸からの乗船者はすぐにサンフランシスコで下船が許されましたが、横浜からの者は下船が許されず、2ケ月ほど留め置かれたということです。
「私の母方の祖母」と言いますから、満屋村から竹田豊三郎(文化14年生まれ)に嫁入ったとみゑ(天保4年生まれ)のことで、この人もまた「やつぱり父の家にゐた。」。「私」はおばあさんの部屋へ行ってよく話し相手になったので「親切な子」だと亡くなるまで褒めてくれたようです。おばあさんは頻りにアメリカのことを聞きたがりました。それは、「私」の伯父の家内と言いますから、槌五郎の妻立岩カメノでしょうか、そのカメノの兄がアメリカで医者をしていました。それに実さんもアメリカに渡りました。そんな血縁の者が居るアメリカの様子を知りたがった、ということでしょう。
実さんは「そこで皿洗ひをしたり葡萄採りをしたりして金を儲けては勉強してゐるといふことであつた。何でも夏休みの時だけ仕事を精一杯して、外の時には学校へ行くのださうだ。」。
恐らくアメリカに渡る前に実さんも読んだであろう「渡米雑誌」。そこには苦学しながら生活する術や体験談が多く記され、若者の渡米熱を煽っていました。実さんの生活も特殊なものではなく、スクールボーイという制度などもありました。上流家庭に住み込んで、家事なども手伝いながら、通学を保障してもらう、そんな生活です。後に新宮で医院を開業する大石誠之助もスクールボーイとして、アメリカの地で医師免許を取得しています。そうして、自身のアメリカ体験やアメリカ生活の心得などを「渡米雑誌」に寄稿しているのです。