佐藤春夫の少年時代(12)

・父の医学修業と新宮での開院(3)
豊太郎が「懐旧」の中で「和歌山の医学校」と「の」を表記しているのは、きわめて正確です。このころまだ和歌山医学校は誕生していなくて、豊太郎が卒業した年の明治15年7月「和歌山医学校」が成立しているからです。

豊太郎が入学した明治12年4月は、和歌山病院と称していて、もともと明治7年11月和歌山市7番町4番官邸の敷地・建物の払い下げを受けて医学校兼小病院として開設されたものが、明治9年2月に和歌山病院と改称され、東京医学校から院長を迎え、和歌山県病院条例、入学生徒通則・教則といった制度面も整えられて発足したものです。生徒通則によれば、正則と変則とに分かれ、正則は14歳以上で定員は30名、就学年限は5年で、他府県出身者は授業料年1円を徴収されたと言います。3年で課程を終えた豊太郎は変則で学んでいたのでしょうか。そうすると、以後の東京の順天堂への遊学はすでに折り込み済みのことであったのかも知れません。

「和歌山医学校」に改称されるのは明治15年7月、豊太郎の卒業後で、設備・体制を整えて翌16年2月の「和歌山医学校規則」によれば、早くも甲種医学校の認可を受けています。明治15年5月に公布された「医学校通則」によれば、甲種医学校の修業年限は4年、入学資格としては初等中等科卒業以上の学力が要求され、卒業生は無試験で医術開業免状が交付されました。明治17年で府県立医学校30校のうち甲種医学校は13校でした。しかしながら明治19年4月の「中学校令」の公付は、医学教育界をも大きく変貌させ、全国5ケ所に設置されることになった官立高等中学校の医科を中心に再編成されることになり、「和歌山医学校」は閉校を余儀なくされるのです。明治20年4月から付属病院だけが和歌山県病院として県の中核病院であり続けますが、それも日露戦争による財政難のために明治37年度限りで廃止となり、38年4月には日本赤十字社和歌山支部病院に引き継がれ、日赤和歌山病院は明治43年5月小松原4丁目に新築移転、7番丁の跡地は和歌山市役所となるのです。(和歌山県立文書館だより」9号参照)

『和歌山県文書館だより』9号より転載

豊太郎は明治19(1886)年3月14日、和歌山の医学校に通学した時、下宿した竹田家の長女政代と結婚しました。竹田家の下宿から医学校までは城のお濠を前にして、ごく近い距離でした。政代は豊太郎より1歳年長でした。懸泉堂の実家とは齟齬(そご)を来たしていましたから、新宮でのささやかな新婚生活の始まりとなったことでしょう。
この年4月1日町村制の実施によって、新宮は、新宮横町他23町村の名称を廃止して、新宮町が誕生し、戸長役場が廃止され、新宮町役場が置かれました。この年10月には紀州勝浦沖でイギリス船ノルマントン号が遭難、英人乗組員27名は全員ボートで脱出しますが、船内に放置された日本人乗客23名や中国人、インド人の火夫は溺死します。
英国の領事裁判で、船長への判決が獄3ヶ月であったことなどをめぐって、わが国の世論が沸騰して、大問題になってゆくのです。鹿鳴館での舞踏会等にうつつをぬかし、西洋文化礼賛だけの姿勢への批判に拍車がかかり、欧米との不平等条約改正を進めつつあった政府も、その内容が漏れたりして一頓挫をきたし、井上馨外務大臣は辞任にも追い込まれてゆきます。国会開設を間近かにして、自由民権運動が次第にしめつけられてくる中で、その後の社会的動向にもおおきな影響を与える事件でした。

ノルマントン号事件「ドバエ」1887年6月15日(牧原憲夫著『民権と憲法』岩波新書より転載)

巷(ちまた)では、1番は「岸打つ波の音高く・夜半(よわ)の嵐に夢さめて・青海原(あおうなばら)をながめつつ・わが兄弟(はらから)は何処(いずく)ぞと」、4番は「ついうかうかと乗せられて・波路(なみじ)もとおき遠州(えんしゅう)の・七十五里もはや過ぎて・今は紀伊なる熊野浦(くまのうら)」など、全部で59番まである歌として、軍歌「抜刀隊」のメロディーに乗せて歌われたのです。わが国の権威はどこにあるのかと問う内容は、時節柄もあって国民のナショナリズムを高揚させ、不平等条約の改正要求が一段と強まったのです。
漢方医ではなくはじめての西洋医としての豊太郎の新宮での開業は、そんな世論の中でしたが、豊太郎を庇護し、その後交流を深めたのは、豪商森佐五右衛門という人です。森は藩政の頃から藩の御用を務めた商人で、50歳前に家業を長子に譲り、すでに隠居、時の藩主水野忠幹から「朗路(さえじ)」の名を撰せられていました。諸芸に優れ、ことに茶道、生け花、和歌に堪能であったと言います。豊太郎は和歌の道を学んだということです。森が隠居していた邸宅を借りて開業したことが、知遇を得る縁になりました。
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この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を熊エプに転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。
(熊エプ編集長・西 敏)

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