佐藤春夫の少年時代(1)
この度、佐藤春夫記念館館長・辻本雄一氏による「館長のつぶやき~佐藤春夫の少年時代」をハイム文芸館に転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。
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はじめに~コロナ禍も先行きが不透明なまま、記念館も3月から休館状態が続き、ようやく6月2日から細心の注意をしての再開となりました。かって、「館長のつぶやき」として、「断章を拾う」「台湾行」を連載したことがありましたが、今回からしばらく、「佐藤春夫の少年時代」を連載します。蟄居同然のなかで、書き始めたものです。新宮中学を卒業して、上京するまでの春夫の姿を、春夫の回想文などを交えながら、素描してみます。明治時代の新宮の町の様子などにも触れてみたいとも、思っています。【2020年5月 辻本雄一 記】
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春夫の誕生(1)
佐藤春夫が和歌山県東牟婁郡新宮町船町119番地に、呱々(ここ)の声を上げるのは、1892(明治25)年4月9日早朝でした。父豊太郎、母政代の長男として、です。近くにあった新宮郵便電信局で電信為替事務を1日から始めたばかりで、豊太郎がさっそく利用したものかどうか。医師として開業していた豊太郎は、鏡水(きょうすい)と号して俳句をたしなみ「よく笑へどちら向いても春の山」と詠(よ)んでいます。熊野の山桜がこんもりと目立ち始める頃でした。
1932(昭和7)年10月27日、東京で春夫の長男方哉(まさや)が生まれたとき、春夫は下里の懸泉堂(けんせんどう)に居る父宛てに「マスラヲウマル」の電報を打ち、下里郵便局で受信して豊太郎に届けたのは、下里出身で東京で出版業に携わり、晩年那智山郵便局を営んだ田代均の父で、父はいつまでも語り草にしていたということです。春夫は33(昭和8)年1月号の「婦人公論」に、「マスラヲウマル―父となるの記」を寄せています。豊太郎にも長男誕生への期待が大きなものがあったろう、と想像されます。何せ、まだまだ家制度が重かった時代、長男の地位は特別なものがありました。
春夫の兄弟姉妹では、姉古萬代(こまよ)は幼くして亡くなり、4歳上に姉保子(やすこ)が生まれています。1895(明治28)年7月には弟夏樹が生まれ、豊太郎は「思ふさま茂れやしげれ夏木立」と詠んでいます。98(明治31)年6月には3男が誕生しましたが、「春・夏」と名付けた関係から、秋雄と命名、「行くさきにこぼれ物あり秋の雞(とり)」と詠みました。 一時、保子の子龍児に「冬樹」を名乗らせようとして、断られたというエピソードが残されています。
明治40年頃の本町通り。現速玉大社大鳥居から丹鶴城址方面を望む。正面突き当りに、豊太郎の「熊野病院」があった。
春夫が生まれた年の新宮町は、戸数2538戸、人口1万838人の記録があります。本町通りの改修計画に16円33銭9厘の予算が計上されていますが(「明治二六年六月事務引継書」・「新宮市史資料編下巻」)、速玉神社から新宮城跡へのこの本町通りは、当時の町のメインストリートで、1889(明治22)年8月20日以降の熊野川大洪水の爪痕がまだ色濃く残されていました。この通りは、やがて煉瓦を砕いたような渋土の赤土が敷き詰められ、外から来た人は、まず道の明るさに目を見張ったということです。赤土の道は、豊太郎の病院横の登坂の切通しから熊野地の方まで延びていました。もちろん舗装などはまだない時代ですし、登坂の道ももっと狭い、自転車が辛うじて通れるほどの幅で、豊太郎がタヌキと格闘したと噂された道でもありました。春夫の作品「私の父が狸と格闘をした話」(大正10年8月「婦人公論」)は、まさに狐につままれたような話のなかに、少年の不安が仄見える雰囲気を醸し出している童話的な作品と言えます。登坂の道が、今に近い幅で掘り下げられ、拡張されたのは、お濠が埋め立てられて丹鶴通りが出現(大正11年11月)してから後のことでした。
辻本雄一