荻悦子詩集「時の娘」より「湖」

160年あまりも昔
ひとりの詩人が
湖を眺めにかよったという丘の上
記念碑のそばに座ると
黄色い野の花がそよぐ草原の先に
浮かびあがる湖

鈍い灰青色の湖面
ぽつりぽつりと小舟の帆
突風に襲われた病身の女性を
救った青年詩人の舟
秋から冬へ
保養地での二十日間の出会い
それをしも愛と呼ぶか

白く咲く桜
萌えでたばかりの木々の若葉
対岸は
うっすらと銀色を帯びてけむり
修道院を包む斜面の林が
いきなり湖へ

**

湖水の鈍いきらめき
離れていく白い帆
絶えず変容していく幻影
 (恋歌は書けなかった)

ひんやりと冷たい夕暮れの風が
野の花を揺らし
湖に浮かぶ帆を
さらに遠くへと運ぶ

すでにあなたではない
誰でもない
わたしのなかのあなた
 (愛はもっと苦手だ)

丘の上の樹陰の石碑
ひえてくる
レリーフの詩人の横顔
刻まれた詩句

荻悦子(おぎ・えつこ)
1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

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