フランスあれこれ(10)下宿の叔母さん(トゥールのお母さん)への手紙(III)
2度のフランス駐在も終わり、20年ほど前に日本に帰国しました。叔母さんに最初にお目に掛かり大変お世話になって以来約40年位たっていました。突然柴田さんが私の前に現れたのです。場所は軽井沢です。
私の親友で同じ高校同級生、今も地元に住んでいる友人J.U君ですが、私の帰国以来10年、毎年夏の終わり頃に彼の会社(大阪朝日放送)の軽井沢寮で落ち合って数日を一緒に過ごしていました。今から10年ほど前の軽井沢でのことです。その友人から「今日は社長が来ることになっている」と聞きました。その社長さんの名前が柴田さんと聞いて一瞬ビックリ!まさかと思いましたが、元朝日新聞、パリ支局の経験もあるとの話。高い確率でありうる話、ぜひ食事もご一緒したいとJ.U君にお願いしました。
確かめるまでもなく下宿の先輩でした。暖炉の上にあったあの写真のご本人。フランス語学校のあと一年程トウールの大学に籍を置いていた様子。早速ワインを抜いて、思い出すまま色々とお話をしましたが、私の記憶違いが多くどんどん修正される始末、滞在期間の長さだけではなさそうでした。台所の手伝い、庭の草刈りや掃除、その他色々お手伝いしたことも伺いました。そうした平素の行いから叔母さんが柴田さんを我が子のように慈しまれたのではないかと想像しますが如何なものでしょうか。
結論を申し上げると、私がフランス語学校の事務所で下宿を紹介された折、一番のお勧めとして叔母さんを勧められたこと、これは日本人が来るというので僅か3か月という短期間の滞在にもかかわらず私を迎え入れてくれたこと、そして家庭教師をして頂いたこと、三度の食事で料理の話、チーズの事、ワインの知識など色々教えて頂いたこと、最後にワインのボトリングまで経験させて頂いたこと、すべては柴田さんの品行に魅せられた結果だとその時になって気づいた次第です。改めてお二人に心から感謝申し上げる次第です。「気が付くのが遅すぎる!」とお叱りを受けそうですね。
その後柴田さんについて少しばかり調べましたのでご報告させて頂きます。私より4年先輩、京都大学のあと朝日新聞、当初は社会部で警察廻りを、そしてフランス留学のあとサイゴン(ベトナム戦争時代)、パリ、ロンドン、やがてヨーロッパ総局長、本社の編集局長と栄進、私が二度目のパリに出向く頃は朝日放送役員、お目に掛かったときは社長をされていました。若い頃からフランスやヨーロッパに限らず世界のニュースや人々の暮らし、ものの見方などを紹介、週刊朝日にも連載で掲載したとのこと、更には多数の出版もされています。2013年6月最後の出版「地球の味わいⅢ」を大阪の友人J.U君経由でお送り頂きました。
私の知る範囲でフランス人を魅了した最初の日本人だったと思います。
(柴田さんの写真はインターネットで見つけたものです)
追記=友人のJ.U君から柴田さんに関する追加の情報が寄せられましたのでご紹介します。多分朝日新聞入社後間もない頃かと思います。1970年代から断続的に頻発した大阪釜ヶ崎騒乱の折、柴田さんがドヤ街に潜入して住民と寝食を共にして記事を書いたとのこと、その折の布団の嫌な臭いが忘れられないと言っていた由です。
私の持論ですが光の裏に影がある。日本の高度成長を支えた陰の力の貢献も忘れてはいけないと思います。