おぼろげ記憶帖 26~2度目のパリ生活 (1)
平成元年、4度目の年女になっていました。終の棲家は東京と決めてやっとマンションも決まり、友達も出来、趣味も楽しんでいました。ところが昭和最後の年の11月、突然再度パリへの辞令が出ました。夫も落ち着いて仕事をしていたようですし、父は病を得て気掛かりな状態でしたから “行きたくない!“ 今回の転勤ばかりは私は抵抗しました。
前任者は単身赴任でした。時には夫婦でという日仏社会とのお付き合いもあり経験のある人間にとなったようです。嫌な言葉で言えば戦時中の赤紙、どうすることも出来ませんでした。小さな事務所でもそのトップとなればそれなりの覚悟が必要です。出来るだけ早い赴任をという事で滞在許可証の申請をして夫はクリスマス前に単身渡仏。私は引っ越してまだ8カ月のマンションで12月28日税関の最終日に間に合うように荷物をまとめ、新年一番の船に積んで貰えるように業者にお願いしました。そしてがらんどうの新しい住み家で一人お正月を迎えたのでした。
長期滞在は許可証が交付されるまで日数が掛かる筈がお正月過ぎに予期せぬ早さで連絡がありました。急ぎ帰国した夫は成田着の飛行機の中で昭和天皇の崩御を知らされました。東京の大使館で受け取ると思っていた許可証が本籍の大阪の領事館での受け取り。領事館は大阪で住んでいたマンションの裏側、大林ビルにありました。何となく幸先の良いような気持になっていました。
神戸で健康診断を受けましたがお医者さんはフランス人でした。再入院していた父を見舞い(これが今生の別れになりましたが大阪での受領は何ともありがたいことでした)心を残しながら二人で赴任しました。平成元年1月20日のことでした。社会人になっていた息子に”両親が同じ飛行機で一緒に赴任してもいい?”と万が一にも飛行機事故になったらと聞いたところその返事は”一度に葬式が出せて手間が省けるかも?”と笑いながら答えが返ってきましたので安心して親子分かれ分かれの生活が始まりました。
(写真は10年間のフランス滞在許可証です。)