おぼろげ記憶帖 31~日本人とのお付き合い (3)
建物のデッサンをする会
何という会の名称だったのでしょうか? 建築家を先生にして建物をデッサンする会がありました。スケッチブックに木炭で腕を伸ばして縮尺を取り、描くのです。
パリでは描く対象の建物には不自由はありません。どこもここも素晴らしい対象物だらけです。私もお誘いを受けましたが絵を描くことは大の苦手、申し訳ないながらお断りしました。
この人たちが作品展を開かれました。色は勿論白と黒のみ。マットの部分の装飾Encadremennt(フランス額装)を教わった人が会の皆さんと一緒に額装をなさったのでした。今まで日本では見たことのないマットの部分の作り方、中身をグンとレベルアップした技法、目からうろことはこのことかと驚きと感激でした。
この展覧会のお蔭でその後フランス人ばかりの額装の教室に6年余り通い、日本に帰国してからも小人数のアトリエを開き、20年もフランス額装に魅入られたような生活をすることになってしまったのでした。
絵付けの会(チャイナペイント)
これも初参加は一時帰国の人の穴埋めのお誘いでした。日本人家庭がお宿をしていました。月に一度女性の先生が来られましたがスイス系のフランス人とのことでした。何故この方だけスイス系というのか判りませんでした。両親のどちらかがスイス人だったのかも?
スイスは首都のベルン、それとチューリッヒはドイツ語圏。レマン湖・ジュネーブはフランス語圏。フランスからスイスへ国境を超えるのに何の支障もありません。島国の日本とは大いに違うところです。またまた苦手な分野へのお誘い。ピンチヒッターを頼む駐在日本人の強引さ、自分の分担金を払えばいいことなのにとあきれるというか根負けして、今後のお付き合いを考えて引き受けてしまいました。
絵を描くのではなく、初心者は図案をカーボン紙に移して描くのでした。この作業は刺繍を長年していた私にはお手のものでした。お蔭で一枚のタイル画が出来上がりました。日本人の小さなグループで周りを気にしながら教わるのではなく、一抹の不安はありましたがもう少し続けて見ようとパリ市の趣味の会に言葉も判らないままに入会しました。そして6年もの間お皿にエンエンと色塗りを続けることになり買う事の出来ないマイお皿を今なお重宝に使っています。日本人は私一人。フランス語が少しづつ耳から入って来るというおまけがありました。